(17) 大きなハロや牛の移動について引き続き話を聞く
Ella Areri(エラ・アレリ)について
4月5日(金)、ヤベロ郡のAreri村に話を聞きに行った。村の畜産開発事務所(PDO)にはちょうど近くの長老たちが集まっていた。そこでヤベロの町の近くにあって一番重要なエラ(伝統的な井戸)であるElla Areriの管理や修復について話を聞いた。
「Ella Areriは、Galgalo HawayuとDubbana Kuraの2人が見つけたエラで、2人がHawatuクラン(ボラナ語ではゴサ[gosa])だったことから、その所有者(アバ・エラ)はHawatuとなっている。2人はそれぞれHawatuクランのBokoltu二次クラン(ボラナ語ではマナ[mana])とKura二次クランとに属していたため、Ella AreriはElla HawatuあるいはElla Hawatu & Kuraと呼ばれることもある。またBokoltuとKuraは、水源を見つけたことにより優先的に水を使うことのできるkonfi familyと呼ばれる存在である。そして3人のアバ・ヘレガ(水の管理人)もkonfi familyから選ばれる。」
「エラの修復が必要になった時には、まずBokoltu二次クランが牛を屠殺し工事をする人たちに振る舞う。次にKura二次クランが牛を屠殺し、さらにエラを使っている人たちが牛を屠殺し…という形で工事が終わるまで続く。」
「また家畜に水を飲ませる時、水が十分にない場合は、まずアバ・ヘレガ(konfi familyの2つの二次クラン)が水を飲ませ、次にhayyu(ゴサの長老)が飲ませ、後は来た順番に水を飲ませることになっている。水が十分にある時には、最初から来た順番で水を飲ませる。」
「Ella Areriには水飲み場が7つあるが、2つは壊れているため、いま使っているのは5つである。修復に参加してくれる二次クランにはそれぞれ水飲み場が与えられている。エラの水源の泉には豊富な水量があるので、我々だけでは扱い切れないだろう。ただし所有権はいまも我々(HawatuクランのBokoltuとKura二次クラン)にあり、所有権を分け合っている訳ではない。水飲み場にはクラン(gosa)、二次クラン(mana)毎の名前が付けられている。1.Burka(HawatuクランBokoltu二次クラン)、2.Kura Adi (HawatuクランKura二次クラン)、3.Kura Dida (HawatuクランKura二次クラン)、4.Sunkaticha (Karayuクラン)、5.Kabisicha (HawatuクランKabiso二次クラン)、6.Arusicha (Arusiクラン)、7.Digalticha (Digaluクラン)だ。」(注:4番と6番の水飲み場はコンクリートにヒビが入っており、水が漏れ出していて機能していない。)
「我々はElla AreriをsabboとGoonaとして(ボレナの2つの外婚半族。その2つの半族ということはボレナ全体)修復することを計画しており、当初は8万ブル(約38万2,400円)集める予定だったが、その後現金で6万ブル(約28万6,800円)、お金が出せない人には労働の形で2万ブル(約9万5,600円)とすることになった。凡そ8割は既に集まっているが、雨季に入ってみな耕作に忙しいので、残りがどのくらいかは確かめていない。また雨季で水飲み場自体が水に浸かっているので、いま水飲み場を修復するのは難しい。」
牛の移動について
長老たちに、牛の移動についても訊いてみた。
「干ばつが厳しい時、かつては牧草と水の両方のために人々は移動していた。けれどもいまはほとんど牧草だけのために、Galan Konso(南部諸民族州コンソ特別ワレダの通年河川にある辺り)に行っている。人々は昔ほどElla Areriに行かなくなっている。それはあちこちに水を飲める場所ができて水の状況が改善されたこと、また気候変動や農地の拡大によってElla Areriの回りによい牧草や土地がなくなったことによる。Galan Konsoにはよい牧草、広い土地、十分な水がみな揃っている。だから人々はそちらに行くのだ。他の地区からたくさんの牛がやって来て共有地が過放牧になってしまった時には、外から来た人たちと話し合って、一緒にGalan Konsoへ行っている。」
「乾季になってDharito村やDida Yabello村の人たちがGalan Konsoに移動する時には、1日目はHaro Bakeで水を飲ませ、2日目はElla Areriで水を飲ませ、3日目にはテルテレ郡Gerdoのポンプ式の井戸で水を飲ませ、そして4日目にGalan Konsoに着く。」
「Arburo村からGalan Konsoに移動する時は、1日目はChari村のElla Kubiで水を飲ませ、2日目はテルテレ郡Gerdoのポンプ式の井戸で水を飲ませ、そして3日目にGalan Konsoに着く。」
「Areri村からGalan Konsoに移動する時には、1日目はElla Areriで水を飲ませ、2日目はテルテレ郡Gerdoのポンプ式の井戸で水を飲ませ、そして3日目にGalan Konsoに着く。」
「我々はアバ・ガダの任期に一度(ボラナのトップであるアバ・ガダは8年に一度交代するので、8年に1回ということ)くらいGalan Konsoに移動する。またDharito村やDida Yabello村やKella村辺りの人たちはまっすぐGalana Konsoに行くことができない。まずHaro Bakeに上がって、それからElla Areriに下がって来て、それから西のGalan Konsoに行く必要があるからだ。」
Haro Duba Dhokiについて
堰が洪水で流されてしまったHaro Duba Dhokiについても訊いてみた。
「Haro Duba Dhokiは最大級のハロで、Areri村のRera Dhadacha DhabaとRera Kukuba Katebu、それからCholkasa村のRera JijiduとRera Chookosa、さらにDhadim村などの家畜に水を供給することができた。Dharito村やDida Yabello村、Dikale村(すべてヤベロ郡)の人たちがGalan Konsoに行く時には、Haro Duba Dhokiを使っていた。Haro Duba Dhokiがなくなってしまったために、彼らはHaro Bakeに上がってからElla Areriに下りて来るという回り道をしなければいけなくなった。」
「Haro Duba Dhokiはデルグ政権時代にブルドーザーを使って造られたものだ。5年くらい前にAFD(Action for Development。有力なNPO)が修復工事に取り掛かり、地元からも500人くらい参加したが、修復が終わらないうちに大洪水が来て、堰が流されてしまった。Haro Duba Dhokiにはシルトが堆積するという大問題があった。いずれにせよ堰が流されてしまったので、5年機能していない。」
「Haro Duba Dhokiの修復を外部のプロジェクトとしてやっても何の問題もない。誰もがHaro Duba Dhokiを必要としているし、既にそこにある古いハロなので、新しい家が建つ心配もない。Haro Duba Dhokiの修復について合意を得るためには、関連する村の長老(arda)、関連する村のゴサの長老(hayyu)、そして関連する村の村長・副村長が集まって議論すればよい。」
Haro Fulo Bikaにて
4月8日(月)はヤベロ郡Dikale村、アレロ郡のHallona村とWebi村、ディレ郡のHigo村とDhbuluk村の境界部分にあるHaro Fulo Bikaを見に行った。有力なNPOであるSORDU(Southern Rangeland Development Unit)がHaro Fulo Bikaのすぐ近くに新しいハロを建設していた。Haro Fulo Bikaはいまあるハロの中で一番古く、原型になったと言われている。新しいHaro Fulo Bikaの工事を請け負っているGuyo氏によれば:
「PCDP(世銀のローンによるPastoral Community Development Project)で大きな予算が付いたこと、また古いHaro Fulo Bikaには水が貯まった状態だったことから、新しいハロを建設することにした。このハロに対するPCDPの予算は300万ブル(約1,434万円)で、3ヶ月前に工事が始まったが、既に最終段階に入っている。コミュニティは工事に参加しておらず、すべて機械/ブルドーザーで造っている。ハロの貯水量は53,000m3、137m☓120m☓4mである。ブルドーザーは時間単位で借りており、1日8時間で、約27,000ブル(12万9千円)/日払っている。」
「我々はさらに2つハロを建設する予定だ。1つはDidara村とDanbala Saden村(共にヤベロ郡)の真ん中の位置で、既に工事が始まっている。もう1つはグジ県のNegele Borenaで、グジ、アルシ、ボレナが住んでいる地区だ。ここにハロを作る理由は、水不足によってこの3つのエスニック・グループが衝突するという問題を解決するためだ。」
ハロの回りでたまたま出会った牧畜民(ヤベロ郡Dharito村の長老Golicha氏の一行。Golicha氏には村でもいろいろ話を聞かせて頂いたが、物静かで、丁寧に説明して下さる、とてもいい方だった。残念なことに、その夏、乗合バスの横転事故で亡くなってしまわれた)に牛の移動について訊いてみた。
「大干ばつの時以外は、あまりここには来ない。けれども大干ばつになるとケニアからも牛をトラックに積んで来たりする。大干ばつで牛が集中して過放牧になると、モヤレ郡やディレ郡、アレロ郡からもやって来る。最近では4年前にそういう事態になった。大乾季にHaro Fulo Bikaが枯れた時には、Haro Dambi Dikaleへ行っていた。Haro Fulo Bikaは2ヶ月くらいしか持たなかったからだ。」
「ほとんどの場合、我々がここに来るのは雨季で、牧草のためだ。乾季の干ばつがよほど厳しくない限り、水のためにここには来ない。我々にはHaro Muyale、Ella Dharito (Dambicha)という大きなハロがあるからだ。ただどちらも修復(掘削)が必要である。Ella Dharito (Dambicha)はAFDによって修復されたことがあるが、現在はエラの牛の出入り口が問題になっており、特に乾季に牛が水飲み場に入ったり出たりするのが難しくなっている。今シーズンもエラから出ようとする時にラクダが1頭死んでいる。Haro Muyateは国道の工事をしている中国の建設業者が、水を運ぶトラックが入りやすいように掘り起こしたために、牛が水場に行きにくくなってしまった。新しくハロを造るよりも、Ella Dharitoを修復した方がよいと思う。」
「乾季に人々はHarawayu村やDikale村からElla Dharitoに移動し、そこから南部諸民族州のコンソに向かう。したがってその人たちがElla Areriの方向に向かう時に便益を受けるハロの修復を優先的にやるべきではないかと思う。個人的な意見として、大きなハロは相互に距離を置いて造る必要があると思う。なぜなら、もしそれぞれの村が大きなハロを持つようなことになると、人々は移動しなくなり、同じ場所に長く留まることになる。そうすると過放牧や土壌劣化などの問題を引き起こす。牛の移動というのは、将来の牧草を守るためにも、必要なことなのである。」
Haro Burraにて
4月9日(火)には、ヤベロ郡Dedertu村にあるHaro Burraを訪れた。
「Haro BurraはHaro Bakeよりも大きな、巨大な枯れることのない(造られてから一度だけ枯れたことがあるが…)ハロで、デルグ政権時代にブルドーザーによって造られた。乾季にはたくさんの村がここを利用している。我々は通常の乾季には移動することがないが、厳しい干ばつが来た時にはGalan Konsoに向かう。Galan Konsoに行く時には、途中でDugda Dawa郡にあるElla Burkaを使う。」
「Haro Duba Dhokiを修復するというのは良い考えだと思う。Haro Duba Dhokiは大きなハロで、周辺の村々だけではなく、Galan Konsoに向かう途中で立ち寄る人たちも大きな便益を受けるからである。」
ヤベロ郡のその他の水源
4月10日(水)には、長老たちの話に出てきたヤベロ郡Dharito村の重要な水源であるHaro MuyateとElla Dambicha(Dharito)を、4月11日(木)にはHidiale村の奥のAdde Gelchat村にあるElla Gelchatを見に行った。
Haro Muyateはヤベロからモヤレに向かう国道沿いの大変便利な場所にある。長老が話していたよう、トラックが水際まで行けるよう造成されていて、牛に水を飲ませるのは大変そうだった。
Ella Dambicha (Dharito)はDharito村の中心から山深く入ったところにあり、四輪駆動でも行くことができないので最後は歩いた。車が入れないとなると、セメントや機材を運ぶのも大変だったろう。
Ella GelchatはHidiale村の中心から、小川を渡って車で行くことが可能だった。コンクリート化の工事をしたのはAFDだが、資金はOxfamから出ていたとわかった。立派なエラだった。