5. ブレ・オラのバイヤイナトゥー(Bayaynatu) 肉断ちの日の食事 #Bule Hora #West Guji #Borana
初めてエチオピアに行ってすぐ、フルフル(Firfir)という、唐辛子で辛くして炒めたインジェラのかけらを、インジェラで包んで食べるような食事(の恐らくはパーム油)に胃をやられてしまい、インジェラが喉を通らなくなった。その状態はほとんど1年近く続いたのだけれど、それを救ってくれたのがバイヤイナトゥー(Bayaynatu)という、肉断ちの日に食べるベジのインジェラだった。エチオピア正教では毎週水金、またクリスマス(エチオピアでは1月7日)の前43日間、イースターの前55日間などが肉断ち日になるため、エチオピアでも北の方では肉断ちの日にだけバイヤイナトゥーを提供する店が多いが、幸いなことにボラナなど南部エチオピアでは毎日食べられるのだ。そのバイヤイナトゥーが大好物になったら、インジェラまで好物になるのだからわからないものだ。
そんなバイヤイナトゥーの中でも特に美味しいと思ったのがブレ・オラ(以前はハゲレ・マリアムと呼ばれることが多かったが、西グジ県がボラナ県から独立してからはブレ・オラと呼ばれる)のホテルで食べるバイヤイナトゥーだった。ボラナ県で耕作ができるところは凡そ標高1,400mを超える辺りに限られており、したがってヤベロやメガ、テルテレの丘のある周りに限られるが、ボラナ県から独立した西グジ県は標高1,400mを超える地域が多いため農作物に恵まれており、それでバイヤイナトゥーも美味しいという訳だ。




4. エチオピアで蜂窩織炎に罹ったことなど #Wegeda Town #Simada Woreda #Bahir Dar #Aregoba #Harub Town #Desie
2008年の4月、虫に刺されたところから黄色ブドウ菌か何かが入ったらしく、蜂窩織炎に罹ってしまった。
虫に刺されたのはエチオピアのアムハラ州南ゴンダール県シマダ郡の中心Wegeda Townというところで、アムハラ州の州都バハルダールから203km、車で4時間くらいの田舎町。
4月23日(水)に泊まったのはこのSelam Hotelで、素泊まり1泊10ブル(2008年の為替レートだと1ドルが9.2ブル、同じく1ドルが103円くらいなので、1泊110円くらい)だった。

部屋の中はこんな感じ。ダニ・南京虫対策としてベッドの上にブルーシートを敷き、寝袋を使っていた。

美味しいコーヒーを頂いた。







このホテルで虫に刺されたのか、あるいは村で話を聴いている時に刺されたのかはわからないのだけれど、右足の甲が腫れて痛くなって来た。抗生物質の入ったクリームを塗ったけれど悪化する一方で、27日(日)には足を引きずらないと歩けなくなった。患部だけではなく、右足の付け根が痛くなった。
28日(月)にはバハルダールから488km離れたアジスアベバまで車で11時間掛けて移動したのだが、足が痛いので途中の薬局で患部を診せた。そうしたら既に全身に回っているので患部を治療してもダメと言われ、抗生物質の飲み薬を処方された。
翌日は途中で1泊して、353km離れたアレゴバ特別県(数百年前にイエメンから移住して来た人たちの住む地域、当時はHarbu Townというところに借りの役所があった)に行った。30日(水)にはアレゴバ特別県の役所を訪れ、さらに村を回ったのだが、あまりに足が痛いので、バケツに水を入れて貰って、足を漬けていた。
足が痛い時はベッドの上に右足を載せたり、トイレでは洗面台に右足を載せたりしていたのだけれど、5月1日(水)になってデセという大きな町で病院に行くことができ、お尻に抗生物質の大きな注射を打たれた。それでようやく痛みが引いた。
そこからまた471km、9時間近く走ってバハルダールに戻り、保健センターで診て貰ったところ、傷口がカルデラのようになって、膿というよりも白いチーズ状のものなどが傷口の回りにあるのを、ピンセットでぐいぐい取り除かれた。処置は痛かったのだが、それでだいたい収まった。
痛くなってから1週間くらいで収まったという感じ。やれやれ。
オマケ:
田舎の安宿に泊まると、部屋の隅によくこんなものが置いてある。これなーんだ?

3. ドミニカ共和国の国営サトウキビ農場跡地で(2001年〜2003年) #La Luisa #Monte Plata #Dominican Republic
ドミニカ共和国の国営サトウキビ農場に、隣国ハイチから働きに来ていた人たちの住んでいる集落は、バテイと呼ばれていた。ラ・ルイサという村のバテイはバテイ・ラ・ルイサという具合だ。バテイ・ラ・ルイサには野球場があった。









2. ネパール東部で(2002年) #Biratonagar #Nepal
ネパールには2002年の夏に、ビラトナガールというインド国境沿いの標高70mしかない町に1ヶ月滞在しただけで、写真もほとんど残っていないのだが、この2枚の子どもたちの写真にはとても思い入れがある。特に2枚目の少女たちの写真は私にとって十年に一枚というような写真だと思っているのだが、大変残念なことに、Facebook/Instagramではポルノ写真だと判定されてしまったので、トリミング加工で対応した。これでもまずいということであればお知らせください。



1. 北部ケニアの半乾燥地バリンゴ県で(1999年〜2001年) #Baringo #Kenya
1990年代中頃から参加型開発・社会開発というような分野に関心を持つようになり、もっと現場に近いところで仕事がしたいと思うようになった。最終的には、中小企業振興・職業訓練・公害対策などが中心の仕事から、思い切って農村開発に転向した。そしてその最初の仕事が、北部ケニアの半乾燥地バリンゴ県の総合農村開発だった。
村々を回って参加型ワークショップを開いたり、聞き取り調査をしたりしながら、記録のために写真を撮っていたのだが、デジタル・カメラが普及し始めたこともあって、写真の数が急に増え始めた。そんな中でとても思い入れのある写真も出て来た。
最初の写真はスタディ・ツアーでバリンゴ湖の反対側に来て、丘の上の見晴台に立つ村人たち。私が景色に見惚れるのは当たり前だけれど、地元の人たちがこんな風に景色を見つめるとは思わなかった。単に想像力が足りなかったということだけれど、歩けば何時間も掛かるところへ、用もないのに来るはずがない訳で、恐らくは生まれて初めてこの景色を見る人がほとんどだったのだろう…。

次の写真は観光地にもなっているカンピ・ヤ・サマキという湖岸の町の外れにある、ツルカナの人たちの集落で撮った子どもたち。紛争を避けて、北のツルカナ県から移住して来ている。紛争はいまも続いており、地元の新聞記事を読むとさらに悪化して多くの死者が出ている。またバリンゴ湖は土砂の流入で浅くなり、小さくなると予測されていたのだけれど、実際には浅くなることで流入する水を受け止められなくなって拡大しているようで、学校が水没したという写真が出ていた。一方、この辺り一帯は昨年から四十年に一度というような干ばつにも見舞われており、それが衝突の激化にもつながっていると言われている。

バリンゴ県では生活改善のための活動の一環として、女性グループを通じた改良かまどの普及を行っていた。その対象となっていた村の一つが、イルチャムスという人たちの住むエルドゥメという村だった。そこで撮った少女の写真はバリンゴで撮った中でも一番思い入れのある一枚となった。

エルドゥメ村で中心となって改良かまどを普及してくれた女性。かまどだけではなく、周りに食器棚や物入れなどを作り始めて、それが皆の人気を集めた。



(18) RREPアプローチのモニタリング・評価について考える
何をモニタリング・評価するのか
「(16) ようやく気がついたこと」に書いたようなRREPアプローチをとる場合、一体どのような形のモニタリング・評価をすればよいのか? 古典的なプロジェクトの評価とどこを変えればよいのか?
実は2003-4年のマラウイ国「小規模灌漑開発技術力向上計画調査」を通じて痛感していたことがあった。この調査では「毎年乾季が始まる頃に、木の枝や竹や草・粘土などで堰を作り、水路を掘るという小規模(10〜30人程度)な灌漑」を普及したのだが、1年目の乾季に23ヶ所で始めた灌漑スキームが2年目には287ヶ所にまで、「爆発的」と言ってよいような拡がりを見せた。チームとしてやったのは堰に適した場所の簡易的な探し方(村人たちが川を渡る時に使っている場所が堰にも適していることが多い)、堰の組み方などを伝授すること、そしてたくさんの普及員を研修して各地でそれぞれ普及して貰うことくらいだった。やり方さえわかれば、誰にでもできる灌漑だった。



けれども実はそこまで拡がるとは誰も予想していなかった。事前に想定していたよりも堰当たりの灌漑面積はずいぶん小さく、これで十分な便益があるのかと心配になるほどだったからである。ところが終了間際になって、なぜみんながそんなに頑張ったのかを聞いて回って、その謎が解けた。
第一に、村人たちは「重力灌漑」というものを知らず、畑に水が来るまで、水路からバケツで水を汲んで畑に運ばなければいけないと思っていた。チームが小さいと思っていた面積は、実は「こんな広いところにバケツで水を撒いていたら疲れて死んでしまう」と思うような広大な面積だったのだ。第二に乾季のメイズは粉にして主食シマ(ウガリよりも細かく挽くのでモッチリしている)にするのではなく、そのまま焼きトウモロコシ用に売っていた。そうすると価格は数倍になるので、面積が小さくても結構な儲けになった。第三に灌漑した畑は緑色になって、乾季にも遠くから目立つのでデモンストレーション効果が抜群で、普及などしなくても見様見真似で始める人が出てきた。



そのような時に、それぞれの灌漑スキームを1つのプロジェクトとして扱って評価してもあまり意味がないのは明らかである。であれば、「期間限定・地区限定・対象限定・目的限定」というプロジェクトの定義を取っ払う必要があると考えた。そして① 1年・1シーズンだけではなく(「期間限定」ではなく)ある程度長期的に捉える、② プロジェクトに直接関わった人たちだけではなく、常に地域全体のことを評価する(プロジェクトの対象地域、ターゲット・グループという「地区限定」「対象限定」を外す)、③ 灌漑というプロジェクトだけではなく、そこから発生する様々な活動も併せて評価する(「目的限定」ではなく、開発に関わるすべての活動を対象とする)こととした。最初にプロジェクトを始めた人たちについては第二世代、第三世代と(まずは乾季の小規模灌漑が次の年もその次の年も継続的に実施されるか。さらに乾季に小規模灌漑をやったことで雨季に改良種子や肥料を購入するか、翌年にはじゃがいもやトマトに挑戦するなどの動きが出て来るかなどを)「垂直的に評価」する、さらにそのプロジェクト(この場合、小規模灌漑)が周辺の村や他の地域にどう拡がって行くかを「水平的に評価する」というやり方である。農村開発においてはプロジェクトらしい独立したプロジェクトというようなものはほとんどなく、すべてのプロジェクトが実はパイロット・プロジェクト、デモ・プロジェクト、あるいは実証プロジェクトであると考えた方が実態に近いのではないだろうか。

そのような考えの延長として、ボレナ県の1年次対象の4郡16村でも、① 「期間限定」ではない継続的な活動(日常的活動)として、② 村中の人たちを「地区限定」「対象限定」ではなく面的に、そして、③ 「目的限定」ではなくすべての開発活動(協働)をモニタリング・評価することを基本にした。
評価5項目
JICAで通常使われているDAC評価5項目(経済協力開発機構[OECD]の開発援助委員会[DAC]による国際的なODA評価の視点)に基づいた上で、RREPのモニタリング・評価では次のような「解釈」で臨み、5段階評価して貰うこととした。
効率性(efficiency)
① 活動は予定通りに進みましたか?
② こうやればもっと良かったというようなことがありましたか?
有効性(effectiveness)
① 当初考えていた目的は達成されましたか? どの程度達成されましたか?
② 次に同じような活動をするなら、ここはこうしたいということがあったら教えてください。
インパクト(impact)
① 活動をしたことで、何か良いことはありましたか?
② 良いことでも悪いことでも、活動をしたことによって何か変化が起こっていたら教えてください。
妥当性(relevance)
① まだこの活動を始めていなかったとして、いまの時点で新たに何か始めるとしたら、やはりこの活動を最優先にやりたいと思いますか?
② 政府の政策や戦略はいまでもこの活動を後押ししていると思いますか?
持続性(sustainability)
① 来年もこの活動を続けたいと思いますか?
② この活動を親戚や友だちにも勧めますか?
③ (普及員として)この活動を他の村々にも拡げたいと思いますか? もし拡げたくないとすれば何故ですか?
④ この活動で足りなかったこと、またこうすればもっと良かったというようなことがありますか?
2013年の4月21日(日)ー22日(月)に予定されていた第1期の中間評価では、それぞれの村での活動について、下表のような評価表を使うことにした。

(17) 大きなハロや牛の移動について引き続き話を聞く
Ella Areri(エラ・アレリ)について
4月5日(金)、ヤベロ郡のAreri村に話を聞きに行った。村の畜産開発事務所(PDO)にはちょうど近くの長老たちが集まっていた。そこでヤベロの町の近くにあって一番重要なエラ(伝統的な井戸)であるElla Areriの管理や修復について話を聞いた。




「Ella Areriは、Galgalo HawayuとDubbana Kuraの2人が見つけたエラで、2人がHawatuクラン(ボラナ語ではゴサ[gosa])だったことから、その所有者(アバ・エラ)はHawatuとなっている。2人はそれぞれHawatuクランのBokoltu二次クラン(ボラナ語ではマナ[mana])とKura二次クランとに属していたため、Ella AreriはElla HawatuあるいはElla Hawatu & Kuraと呼ばれることもある。またBokoltuとKuraは、水源を見つけたことにより優先的に水を使うことのできるkonfi familyと呼ばれる存在である。そして3人のアバ・ヘレガ(水の管理人)もkonfi familyから選ばれる。」

「エラの修復が必要になった時には、まずBokoltu二次クランが牛を屠殺し工事をする人たちに振る舞う。次にKura二次クランが牛を屠殺し、さらにエラを使っている人たちが牛を屠殺し…という形で工事が終わるまで続く。」
「また家畜に水を飲ませる時、水が十分にない場合は、まずアバ・ヘレガ(konfi familyの2つの二次クラン)が水を飲ませ、次にhayyu(ゴサの長老)が飲ませ、後は来た順番に水を飲ませることになっている。水が十分にある時には、最初から来た順番で水を飲ませる。」

「Ella Areriには水飲み場が7つあるが、2つは壊れているため、いま使っているのは5つである。修復に参加してくれる二次クランにはそれぞれ水飲み場が与えられている。エラの水源の泉には豊富な水量があるので、我々だけでは扱い切れないだろう。ただし所有権はいまも我々(HawatuクランのBokoltuとKura二次クラン)にあり、所有権を分け合っている訳ではない。水飲み場にはクラン(gosa)、二次クラン(mana)毎の名前が付けられている。1.Burka(HawatuクランBokoltu二次クラン)、2.Kura Adi (HawatuクランKura二次クラン)、3.Kura Dida (HawatuクランKura二次クラン)、4.Sunkaticha (Karayuクラン)、5.Kabisicha (HawatuクランKabiso二次クラン)、6.Arusicha (Arusiクラン)、7.Digalticha (Digaluクラン)だ。」(注:4番と6番の水飲み場はコンクリートにヒビが入っており、水が漏れ出していて機能していない。)
「我々はElla AreriをsabboとGoonaとして(ボレナの2つの外婚半族。その2つの半族ということはボレナ全体)修復することを計画しており、当初は8万ブル(約38万2,400円)集める予定だったが、その後現金で6万ブル(約28万6,800円)、お金が出せない人には労働の形で2万ブル(約9万5,600円)とすることになった。凡そ8割は既に集まっているが、雨季に入ってみな耕作に忙しいので、残りがどのくらいかは確かめていない。また雨季で水飲み場自体が水に浸かっているので、いま水飲み場を修復するのは難しい。」
牛の移動について
長老たちに、牛の移動についても訊いてみた。
「干ばつが厳しい時、かつては牧草と水の両方のために人々は移動していた。けれどもいまはほとんど牧草だけのために、Galan Konso(南部諸民族州コンソ特別ワレダの通年河川にある辺り)に行っている。人々は昔ほどElla Areriに行かなくなっている。それはあちこちに水を飲める場所ができて水の状況が改善されたこと、また気候変動や農地の拡大によってElla Areriの回りによい牧草や土地がなくなったことによる。Galan Konsoにはよい牧草、広い土地、十分な水がみな揃っている。だから人々はそちらに行くのだ。他の地区からたくさんの牛がやって来て共有地が過放牧になってしまった時には、外から来た人たちと話し合って、一緒にGalan Konsoへ行っている。」

「乾季になってDharito村やDida Yabello村の人たちがGalan Konsoに移動する時には、1日目はHaro Bakeで水を飲ませ、2日目はElla Areriで水を飲ませ、3日目にはテルテレ郡Gerdoのポンプ式の井戸で水を飲ませ、そして4日目にGalan Konsoに着く。」
「Arburo村からGalan Konsoに移動する時は、1日目はChari村のElla Kubiで水を飲ませ、2日目はテルテレ郡Gerdoのポンプ式の井戸で水を飲ませ、そして3日目にGalan Konsoに着く。」
「Areri村からGalan Konsoに移動する時には、1日目はElla Areriで水を飲ませ、2日目はテルテレ郡Gerdoのポンプ式の井戸で水を飲ませ、そして3日目にGalan Konsoに着く。」
「我々はアバ・ガダの任期に一度(ボラナのトップであるアバ・ガダは8年に一度交代するので、8年に1回ということ)くらいGalan Konsoに移動する。またDharito村やDida Yabello村やKella村辺りの人たちはまっすぐGalana Konsoに行くことができない。まずHaro Bakeに上がって、それからElla Areriに下がって来て、それから西のGalan Konsoに行く必要があるからだ。」
Haro Duba Dhokiについて
堰が洪水で流されてしまったHaro Duba Dhokiについても訊いてみた。

「Haro Duba Dhokiは最大級のハロで、Areri村のRera Dhadacha DhabaとRera Kukuba Katebu、それからCholkasa村のRera JijiduとRera Chookosa、さらにDhadim村などの家畜に水を供給することができた。Dharito村やDida Yabello村、Dikale村(すべてヤベロ郡)の人たちがGalan Konsoに行く時には、Haro Duba Dhokiを使っていた。Haro Duba Dhokiがなくなってしまったために、彼らはHaro Bakeに上がってからElla Areriに下りて来るという回り道をしなければいけなくなった。」
「Haro Duba Dhokiはデルグ政権時代にブルドーザーを使って造られたものだ。5年くらい前にAFD(Action for Development。有力なNPO)が修復工事に取り掛かり、地元からも500人くらい参加したが、修復が終わらないうちに大洪水が来て、堰が流されてしまった。Haro Duba Dhokiにはシルトが堆積するという大問題があった。いずれにせよ堰が流されてしまったので、5年機能していない。」
「Haro Duba Dhokiの修復を外部のプロジェクトとしてやっても何の問題もない。誰もがHaro Duba Dhokiを必要としているし、既にそこにある古いハロなので、新しい家が建つ心配もない。Haro Duba Dhokiの修復について合意を得るためには、関連する村の長老(arda)、関連する村のゴサの長老(hayyu)、そして関連する村の村長・副村長が集まって議論すればよい。」
Haro Fulo Bikaにて

4月8日(月)はヤベロ郡Dikale村、アレロ郡のHallona村とWebi村、ディレ郡のHigo村とDhbuluk村の境界部分にあるHaro Fulo Bikaを見に行った。有力なNPOであるSORDU(Southern Rangeland Development Unit)がHaro Fulo Bikaのすぐ近くに新しいハロを建設していた。Haro Fulo Bikaはいまあるハロの中で一番古く、原型になったと言われている。新しいHaro Fulo Bikaの工事を請け負っているGuyo氏によれば:

「PCDP(世銀のローンによるPastoral Community Development Project)で大きな予算が付いたこと、また古いHaro Fulo Bikaには水が貯まった状態だったことから、新しいハロを建設することにした。このハロに対するPCDPの予算は300万ブル(約1,434万円)で、3ヶ月前に工事が始まったが、既に最終段階に入っている。コミュニティは工事に参加しておらず、すべて機械/ブルドーザーで造っている。ハロの貯水量は53,000m3、137m☓120m☓4mである。ブルドーザーは時間単位で借りており、1日8時間で、約27,000ブル(12万9千円)/日払っている。」




「我々はさらに2つハロを建設する予定だ。1つはDidara村とDanbala Saden村(共にヤベロ郡)の真ん中の位置で、既に工事が始まっている。もう1つはグジ県のNegele Borenaで、グジ、アルシ、ボレナが住んでいる地区だ。ここにハロを作る理由は、水不足によってこの3つのエスニック・グループが衝突するという問題を解決するためだ。」
ハロの回りでたまたま出会った牧畜民(ヤベロ郡Dharito村の長老Golicha氏の一行。Golicha氏には村でもいろいろ話を聞かせて頂いたが、物静かで、丁寧に説明して下さる、とてもいい方だった。残念なことに、その夏、乗合バスの横転事故で亡くなってしまわれた)に牛の移動について訊いてみた。


「大干ばつの時以外は、あまりここには来ない。けれども大干ばつになるとケニアからも牛をトラックに積んで来たりする。大干ばつで牛が集中して過放牧になると、モヤレ郡やディレ郡、アレロ郡からもやって来る。最近では4年前にそういう事態になった。大乾季にHaro Fulo Bikaが枯れた時には、Haro Dambi Dikaleへ行っていた。Haro Fulo Bikaは2ヶ月くらいしか持たなかったからだ。」
「ほとんどの場合、我々がここに来るのは雨季で、牧草のためだ。乾季の干ばつがよほど厳しくない限り、水のためにここには来ない。我々にはHaro Muyale、Ella Dharito (Dambicha)という大きなハロがあるからだ。ただどちらも修復(掘削)が必要である。Ella Dharito (Dambicha)はAFDによって修復されたことがあるが、現在はエラの牛の出入り口が問題になっており、特に乾季に牛が水飲み場に入ったり出たりするのが難しくなっている。今シーズンもエラから出ようとする時にラクダが1頭死んでいる。Haro Muyateは国道の工事をしている中国の建設業者が、水を運ぶトラックが入りやすいように掘り起こしたために、牛が水場に行きにくくなってしまった。新しくハロを造るよりも、Ella Dharitoを修復した方がよいと思う。」
「乾季に人々はHarawayu村やDikale村からElla Dharitoに移動し、そこから南部諸民族州のコンソに向かう。したがってその人たちがElla Areriの方向に向かう時に便益を受けるハロの修復を優先的にやるべきではないかと思う。個人的な意見として、大きなハロは相互に距離を置いて造る必要があると思う。なぜなら、もしそれぞれの村が大きなハロを持つようなことになると、人々は移動しなくなり、同じ場所に長く留まることになる。そうすると過放牧や土壌劣化などの問題を引き起こす。牛の移動というのは、将来の牧草を守るためにも、必要なことなのである。」
Haro Burraにて
4月9日(火)には、ヤベロ郡Dedertu村にあるHaro Burraを訪れた。

「Haro BurraはHaro Bakeよりも大きな、巨大な枯れることのない(造られてから一度だけ枯れたことがあるが…)ハロで、デルグ政権時代にブルドーザーによって造られた。乾季にはたくさんの村がここを利用している。我々は通常の乾季には移動することがないが、厳しい干ばつが来た時にはGalan Konsoに向かう。Galan Konsoに行く時には、途中でDugda Dawa郡にあるElla Burkaを使う。」
「Haro Duba Dhokiを修復するというのは良い考えだと思う。Haro Duba Dhokiは大きなハロで、周辺の村々だけではなく、Galan Konsoに向かう途中で立ち寄る人たちも大きな便益を受けるからである。」



ヤベロ郡のその他の水源
4月10日(水)には、長老たちの話に出てきたヤベロ郡Dharito村の重要な水源であるHaro MuyateとElla Dambicha(Dharito)を、4月11日(木)にはHidiale村の奥のAdde Gelchat村にあるElla Gelchatを見に行った。
Haro Muyateはヤベロからモヤレに向かう国道沿いの大変便利な場所にある。長老が話していたよう、トラックが水際まで行けるよう造成されていて、牛に水を飲ませるのは大変そうだった。



Ella Dambicha (Dharito)はDharito村の中心から山深く入ったところにあり、四輪駆動でも行くことができないので最後は歩いた。車が入れないとなると、セメントや機材を運ぶのも大変だったろう。





Ella GelchatはHidiale村の中心から、小川を渡って車で行くことが可能だった。コンクリート化の工事をしたのはAFDだが、資金はOxfamから出ていたとわかった。立派なエラだった。




